あれから7年、東日本大震災のあのとき福島県郡山市に住んでました。

震災の日、福島県郡山市に住んでました。

ログハウスとは関係ない記事になります。

2011.3.11。

東日本大震災の日、私は福島県郡山市に住んでました。

沿岸部ではなかったもののやはりあの恐怖は想像を絶するものでした。

あの日から、7年も経ちました。記憶は少しずつ薄らいでるように感じます。

あの日の記憶を忘れないために、この記事をつくります。

沿岸部の大きな大きな被害にあった方たちに比べると私の震災体験はとても軽いものとは思います。

始まりは、普段の仕事中におきました。

何事もない普段の仕事中でした。

3時少し前です。

いきなり聞いたことも無い警報音が大音量で流れました。

職場は全員なにごとかとざわつきました。

少しすると地震が始まりました。

おそらく最初はみんな、すぐに揺れはおさまるだろうと思っていたと思います。

ところが、

揺れはだんだんと大きくなり、しかも数分は続きました。

あの大きな揺れで数分続いたのは、かなり長く感じました。

そのときの光景はいまだに頭にやきついてます。

揺れが大きくなりみんな立てる状況では無く、机の下でじっと揺れがおさまるのを待つしかありませんでした。揺れが大きくてとても歩ける状態ではありませんでした。とにかく揺れがおさまるのをみんなひたすら待ったのです。

ようやく最初の大きな揺れがおさまり職場の防災委員たちが一時避難場所へ誘導を始めました。一時避難場所といっても会社の前の広場です。

当然、エレベーターは使えなかったので全員階段で降りていきます。そのあたりからいま起こっていることへの恐怖がわいてきました。

一時避難場所へ全員が集まり点呼が始まりました。そのとき、突然の大雪が降り始めめたのです。みんな、この大地震の影響だと信じて疑いませんでした。

また、いまおこっていることへの現実逃避なのか、ヘラヘラと笑っている人たちもいました。

会社の解散後

ほどなく職場は解散となり、自宅へ戻ることになりました。

私は実家は北海道なのですが、妻と妻の実家が近くにあり、かつ妻方の祖母の一人暮らしで家もかなり古かったので心配になりまずはそこへ足を運びました。

着くと、大きな被害は出ていなかったので一安心。

次に小学校の教師をしている妻へ連絡をこころみました。

なかなか電話はつながらず、返信がくるのを待つしかありませんでした。

担任を持っていたので児童たちへの非難などの対処で忙しいのでしょう。

ほどなく妻も帰宅し、状況をお互いに確認。

ガソリンの確保

たまたまですが、車のガソリンが底をつきかけていたので、まずはガソリンを確保しました。

ほんとにたまたまですが、その日に入れておいてよかったです。

なぜなら次の日から2週間ほどはガソリンの入手が困難になったからです。

また、当時の政治家の判断で、なぜかガソリンの補充を関東を先にしていました。

なにか理由はあったとは思いましたが、これはとても信じられませんでした。

食料の確保

東北魂を強く感じました。

物流が完全にストップした状態でした。

それなのに、チェーンのスーパーや地元のスーパーなど住民たちの食の確保のために営業を続けてくれたのです。本当に感謝でした。食料の確保だけでなく心の不安もとりぞいていただきました。

福島第一原発

会社も休業状態となり、自宅待機の状態でした。

2日後くらいには、岩手の避難所から友人が戻ってきてガソリンの関係もあることから私のアパートで一緒に待機しました。

できることといったら北海道の実家や仙台の親戚などへ安否の確認連絡くらいでした。

あるとき、妻と二人でニュースを見ていました。

急に画面が切り替わり、原発爆発のニュースでした。

が、

一分ほどでそのニュースは遮断されました。

他のチャンネルを回しても一切そのニュースはやってません。

???と思いながら、次にそのニュースが流れたのはなんと数時間後。

そのとき初めてテレビ報道の情報操作が実際にあるのだと実感しました。

放射線も確実に郡山市までとんできました。放射線量は事後のニュースで知りました。

爆発したその日には、通常ではない放射線量がとんできていたようです。

その日からは、地震よりも原発の恐怖が一番大きくなったと思います。

津波

当時、津波の映像がたくさん流れました。

いまでは絶対に流れないショキングな映像がたくさんありました。

全国では流れてない映像もきっとあったかと思います。

それらを思い出すたびに胸が苦しくなります。

少し時間が経って、妻の親戚がいる沿岸部へ行きました。

ありえない風景がそこにはありました。

まだまだ書き足りてないので少しずつ追加していきたいと思います。

薪ストーブの炎は癒されます。

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